すぐれた 先人たちの 自然観




宮沢賢治から 触れてみると、宮沢賢治は 自分の中に 美の基を 発見した人だと 私は 考えます。
彼は 職業芸術を 否定しました。自分自身が 芸術家であることを 自覚しなければならないと 説きました。
そして、31歳の時に 「農民芸術概論綱要」 というのを 書きました。
私は 若い時から この「農民芸術概論綱要」を 一種の お経だと 思って 読んでいました。宇宙と 一体になる 努力をする この考え方は、 一体 どこから 生まれてきたのでしょう。
賢治は 中学5年生の時、家で 仏教の聖典である「法華経」の 日本語訳を 発見し、 読んだそうです。
そのとき 彼は 身震いがするほど 感動し、とうとう 法華経の 信者になってしまいました。
ところが、彼の 父親は 浄土真宗の 熱心な信者だったので、 二人は 宗教上 対立することになりました。
彼は 家を出て 上京し、国柱会という 日蓮宗に入り、そこで 苦労しながら、多くの作品を 生み出しました。
その 東京での 間借の 貧乏生活で できた作品が、彼の作品の 大部分といっていいでしょう。
そして、38才の時に 肺病で 亡くなりました。父に残した 遺言は、「自分が死んだら、 和訳の法華経を 千部作って、自分の知人に 配って欲しい。」ということでした。

それだけ 彼が 影響された 法華経とは、どのような 思想なのでしょうか。
私は 町長を 辞めてから、宮沢賢治を 知るために、法華経の 勉強を 始めました。
法華経の 思想の 第一は、宇宙を貫く 真理は 一つであると 謳っています。これは 宇宙の 統一的真理で、一乗妙法といいます。
いわゆる全体自然を 貫くのが、本当の 真理であると 妙法典でいっています。宮沢賢治は この思想に 生きて、死んでいった 人なのです。

彼の 最後の作品は「銀河鉄道の夜」です。これは 彼の 願いでもあります。
法華経の思想が 濃くみられる 作品に「よだかの星」が あります。よだか という 醜い鳥が、他の鳥たちに いじめられて、最後は 命がけで 空に昇っていって、とうとう よだかの星になって 今でも 輝いているという 作品です。
また「セロ弾きのゴーシュ」 の中でも、楽団の中でも 一番下手で、いつもしかられている ゴーシュは、夜を徹して セロを弾いているうちに、ある時 突然に 楽団一の セロ弾きの名人に なります。
本当に 自分の中に 求めていけば、定(じょう)に入ることができる という思想が みられます。
定とは 禅では 禅定といいます。この 定の中で、縁によって 大歓喜が 身中に起こり、その瞬間に 大きく 脱皮するのです。このような 嘘のような 瞬間が あるのだと 信ずることです。
宮沢賢治は 自ら これらを体験した人であることに 間違いありません。私は 賢治の作品は、法華経を通じ、彼の この体験をとおして、 比喩を以って書かれた 求道者の作品であると 考えます。

さて、南洲翁について ですが、私が ずっと 疑問に思ってきた 言葉があります。
「敬天愛人」でいう 天とは 何であるか ということです。そして この天を いつ、 どのようなときに 発見したのか、それは どこにあったのかと、ただ 言葉だけでなく 知りたいと 思いました。
南洲翁は、二回 島流しになっています。第一回目は 奄美大島で、二回目は 久光公の怒りを買い、沖永良部に流され 囲牢に 入れられます。
そして 生死の境を さまよいながら、牢番の 土持政照に 助けられます。絶海の孤島で、 また 何の情報も入らない 囲牢の中で 何が、起こったのでしょうか。
翁の詩に 「沖永良部囲牢中作」があります。

獄裡氷心甘苦辛
辛酸透骨看吾真
狂言妄語誰知得
仰不愧天況又人

あまり 有名で ないのですが、私は 翁の詩の中で 最も 重要な漢詩だと 思っています。
私の解釈は 次のようです。「獄裡(牢屋の中)で、氷のように 冷たい心、 澄みきった 心で、この苦しみに 甘んじている。その辛酸が 骨を透かして 真を 発見したのだ。」
これは、南洲翁が 生涯かかって 求め続けたもの、それは 真心 ということです。
人類は 過去においても 現在においても、また どんな民族でも、「真・善・美」を 求めています。その中でも、一番 大切なものは 真です。
南洲翁は、囲牢の中で、 生死の境を さまよいながら、この真を 発見したのだと 思います。いや、 発見したというよりも 真そのものに なったと 言えるのかも しれません。
「狂言や妄語、このような 狂った言葉、嘘みたいな言葉は 誰も わからないだろう。 しかしながら、天にも 人にも 恥じない、これが 本当なのだ。」
また 禅には、座禅が あります。座禅で 何をするのかというと、見性(けんしょう)を するためです。
人間の本性(禅では本来の面目)を はっきりさせ、自分の本当の 命の根元につきあたり、それを発見することを 見性といいます。
それで、南洲翁も この 囲牢の中で、真を求めていき、大悟(大きな悟り)を得たのだと 思います。

なぜ そのように 思うのかといいますと、昭和26年、私が 山に入る少し前に、 南日本新聞に 翁の 牢中作として、「いと嬉し 直昆の神の 幸ひかも ひとやの中に 真心は立つ」という 和歌が 新しく発見されたことが 出ていました。
私は これを読んで 大変な 和歌だと 思いました。
この大歓喜で、神様のご加護、力によって、 ひとや(牢獄)の中で、真心が立った。
これは 真心 そのものになった ということで、 「幾度か 辛酸を経て 志 始めて硬し」(感慨)とあるように、絶対に 壊れることのない 堅い真心、即ち 真そのものになった ということです。
そして また、この時に 南洲翁が 発見したのは、天(てん)の 思想ではないか と 思います。
私は 南洲翁の 天についての 説明が、どこかにないかと 探しました。なかなか みつけられなかったのですが、「南洲翁遺訓」の、 二十一と 二十四の 二個所で、天について 説明しているように 思います。
真は、 天地自然を 貫くものである ということだと 思います。しかも それに 到達したのは、 自分の中から 発見した というのです。
宮沢賢治は、自分の中に 美を 発見しました。 そして それは、みんなが 発見しなければならないのだと いいました。
その美が、 だんだん膨らんで、美という言葉が なくなるほど、それは 果てしなく 広がるであろうと 言っています。では、美という言葉が なくなったら、何に なるのでしょう。
それは 真に なるのです。すべての元は 真であり、南洲翁が 命がけで 求めたものだと 思います。

最後に 山岡鉄舟の 自然観ですが、私は たいへんな人だと 感じ入りました。
「山花水鳥以知己」 この 山花水鳥は、自然です。自然というのは、自分を 知るのと 同じだ というのです。たった これだけの 言葉の中に、真を 言い表わしていると 思います。

禅ーそれは見性であると 述べましたが、しかも その本来の面目を 得ることが できたときに、大歓喜(自分の頭が 狂ったのではないだろうかと 思うぐらいの 歓喜)が 起こります。
このことが わからなければ、南洲翁の 狂言文の 解釈は 出てこないと 思います。普通では 考えられないような この狂った言葉、嘘のような言葉、これが 本当なのだと 思います。
私が 山に入って、3年経った時に、若い者が 全員 山を下って、私と家内の 二人だけに なりました。
それと同時に 水がなくなり、水なし生活を 強いられ、日照りが続くと、 下の方から 山道を ドラム缶で水を汲み、馬車で 引き上げる といった生活を 三年間 続けました。
食うや食わずの 生活で、若い者が残した 借金を 被りました。それでも なぜ 山を降りなかったのでしょうか。

「薬師寺さんは、いつ山を出るか。」という 話まであったようですが、私は 絶対に 出ませんでした。
それは 私が 山に入る前に、北海道の 放浪から 始めますと、 6、7年間 は、ただ 山に入って 山の開発をやるのだ ということだけで、あらゆる 苦しいことを 乗り越えてきました。とうとう 山に入る 一年半前というのは、家内や 子どもとは 生き別れになり、路頭に 迷った 状態でした。
そして 忘れもしません、昭和26年の11月8日。
その時は、もうこれで いよいよ 俺はおしまいだと 思っていました。山に入ることも できず、家内や子供とも 生き別れになって、どうしても 話が うまくいきませんでした。
しかし 不思議と 私の心は 澄みきって、死さえ 心地良く思え、後で考えると 定に入って いたようです。
そこへ 家内から 手紙が 届きました。家内も 死を決しているようでした。
家内の父は 私の大学の 先輩で、農林省の お役人でした。そして 若くして 亡くなったのですが、 彼女が 子どもの頃、父親に連れられて 行ったところで、一番 楽しかったのは、 広島だった そうです。
「これから 広島へ行きます。」と 手紙に 書かれてありました。 広島で 子どもを道づれに 死ぬつもりだったようです。
普通なら これで 参るはずでした。でも 不思議です。ものすごく 歓喜が 湧いたのです。
私の書いた本を 読んだ方が いらっしゃるようですが、その中に 詳しく 書いてあります。全く 考えられないことが 起こったのです。
大歓喜が 湧き起こり、 俺は頭が 狂ったのではないかと 思いました。その瞬間に、いかなることがあっても 山に入るという気が 不動のものと なりました。
それで 山に入るという時に、公言したのです。「俺は必ず 成功する。いかなることが あっても。」と。何故か、それは、絶対に 自分の気持ちが 変らないように なってしまったからです。
変わらないということは、必ず成功する ということです。
その時 私の口から ついて出た言葉は、「初一念とは 最後の一念なり」でした。
学生の時から、初一念を はっきりさせることを、やかましく 先生から 言われてました。 その時分は、初一念を はっきりさせるとは どんな意味なのか わかりませんでした。
しかし この瞬間に、初めと終わりが 同じでないと、初一念には ならないと わかったのです。初一念があって、最後が 違ったら 初一念になりません。だから、 初一念が 不動のものになれば、必ず 思ったとおりになる ということなのです。
そういうことで、山に入る時に、絶対に 成功するのだ という気持ちで、いかなることが あっても 変ることなく、またそうなって しまったのだから、若い者が 山を降りても、 水はなくなり 何もない 状態でも、それでも 山を降りるという 気持ちは 全く 起こりませんでした。
そのために、家族には ひどい目に あわせました。私の場合は、ただ 山に入るということだけで、そうなるのですから。みなさん方も、やろうと思ったことを つきつめていけば、もう 動かすことのできないものに なるはずです。
しかし、 その時 私は、自分は 本当に 頭が狂ったのかと 思いました。徹底的に 立ち上がれないほど たたきつけられるはずが、大歓喜と なっていました。
そして 家内に 大急ぎで 電報を 打ちました。広島まで 行き、広島で つかまえることが できました。そういうものなのです。

山に入って 四十余年になり、町長を 八年間しました。
八年間、毎日 山の家から 通いました。栗野の 町に泊まったことがあるのは、三晩だけ です。おととしの 8月の初めに、鹿児島市が 豪雨で 災害に遭いました。私の町は、8月1日に 徹底的に やられました。災害で どうにも ならなくなって、帰るどころでは ありませんでした。
そして 町長室で 三日間を 過ごしました。あとは いかなることが あっても、家に 帰りました。
今となってみれば、いい死に場所、青山を 与えられたと 思っています。
現在は、 家内が 野草類が 滅んでいくということで、野草を集めて 一生懸命 守っていますが、 最近は 野草ブームで 興味のある人が多く、野草を見に よく訪れるようになりました。
家内がいなければ 私は 説明できないので、見れば わかるように 全部名前を書いて、 立て札を つけました。
木に咲く花も、ミヤマキリシマから ヤマボウシ・シャラ・ヒメシャラまで、山にあるものは みんな集めて 守ってやることを、 私の これからの 仕事にしようと 思っています。








これで 全てです。



目次に 戻る