私の 高原農業 開発




私は 大学の 農学部を 出たことに なっています。しかし、実は 学徒出陣組で、 皆 昭和18年秋に入隊 でしたが 入隊が遅れ、19年4月に 入隊、それで 大学に長くいた ということで、卒業させて もらいました。
戦後は 大学に 戻りませんでした。これから どうしたら よいものか、終戦直後 というのは、誰もが 迷った 時代でした。私も 随分 迷いました。ただ 結論として、 大学の 農学部を 出たのだから、何か 農業を通して 社会に 奉仕しなければ ならない ということを 思いました。

終戦後の 日本は 国中 飢餓そのもので 餓死寸前と 言っても 良かったでしょう。 そこで、日本農業で 一番遅れている 分野は 何であろうか と 一人で 考えました。 それは「高原農業」ではないかと 自分なりに 結論を 得ました。
日本農業は 水田中心で、大昔から 開田され 稲が 作られてきました。それより高い 水のない所での 農業は、ほとんど 手つかずで 遅れていったわけです。
世界では スイスの アルプスの山で、夏は 海抜 2500メートルの所まで 牛を飼って、今日も 高原農業が 行われています。私は 日本でも きっと 高原農業が 大切になり、やらなければならないものに なってくるだろうと 思いました。
ところが、それから先 どうしたらいいのか 全くわからないし、また 勉強する所も ありませんでした。

昭和17年の 秋でした。私は 大学1年生の 秋の試験休みに、友人と 無銭旅行にも近い 状態で 北海道の、札幌を振り出しに 十勝・釧路・根室の 釧路原野から オホーツク海岸の 紋別の方まで 巡りました。その時の 記憶で、 「そうだ 北海道に行けば、高原農業に通ずるものが 学べるのでは なかろうか。」 と 考えたのです。

幸いにも 先輩から 北海道で 有力な人を 紹介してもらうことが できたのです。
この人の紹介で 札幌より南の 恵庭村という所で、開拓16年目の 酪農家に 実習生として 入ることが できたのです。まだ かけ出しの 農家でしたが、 紹介した人に 先見の明が あったのでしょう、この酪農家は 昭和38年に 酪農 日本一に なりました。
それは ともかく、私は そこで初めて 牛飼の牛に 触れることが できました。そうして 一冬が すぎました。
しかし、北方農業の 技術を いくらか習得しても、高原農業に 取り組むだけの 勇気が 出てきませんでした。
私の生まれは 大分県の 津久見です。津久見は 海岸沿いにあり、しかも 私の育った家の裏は 海でした。海で育った 私は 山の生活が 全くわからないのです。

一度 帰郷した後 また思い直して、北海道へ行くことを 決めました。今度は 結婚した早々で、妻と一緒に 渡りました。
小・中・高 の 六・三・三 制 が できた頃で、友人から 北海道の 山の方は、中学校は 名ばかりで、先生も いなければ 校舎もない、子供たちだけはいる ということを 聞いていました。
それでは、私が行って 少しでもお手伝いしようという 気持ちになり、昭和23年 二月の 酷寒の大雪の中の 北海道に 渡ったのです。
お年寄りの方は 思い出されるかも しれません。当時は 遠くまで行く 列車の 切符を買うためには 駅に 幾晩も 並ばなければなりませんでした。もちろん 汽車も 鈍行です。急行などは 一つもありません。
汽車を乗り継ぎ 雪道を歩いて、 阿寒の山に近い 戦前からの開拓集落 標茶村久著呂(しべちゃむらくちょろ)に 入ることが できたのです。
鉄道の 沿線から 20キロの所で、空いている家を 使って、私と妻で 中学校を 開きました。
子供たちは 大勢 集まってきました。 私たちは そこで 二冬を 過ごしました。
その中学校は 標茶町立久著呂中学校として 今も 立派にあります。ちょうど 十年前、当時の 教え子たちから、夫婦そろって 釧路まで 招かれました。思い出の深い 土地なのです。

そうしているうちに、埼玉に 新しい農学校が 出来ることになりました。
この 日本農学校を 始めるのに、どうしても 手伝ってほしいということで、久著呂の 山の中まで 先輩が 迎えに来ました。
私は とうとうひっぱり出されて、 埼玉の農学校で しばらく教鞭を とっていました。
しかし 考えなおして、 「俺がこんなことをすることは 俺の目的でないはずだ。自分の目的は 山の農業を やることだったんだ。」と 思いなおし、大変 無理をしましたが、その学校を 1年半近くで 退職しました。

そして、自分の目的の「山の農業」を どこでやるか ということになり、それは 鹿児島だと 心に 決めました。私の生まれは 鹿児島ではありませんが、 第七高等学校で 三年間を過ごして、友人・先輩 が 一番多いのが 鹿児島でした。
それに 私にとって 第二の故郷 という気持ちが 強かったので、どうしても鹿児島で やりたかったのです。
また 農学校の 学生が 私についてくることになって、大勢 やってきました。それから 現在の土地を 探すまで、1年半を 空費してしまいました。

そして 昭和27年の2月までかかって、やっと今の土地に 入植しました。
その 4か月前の 10月15日は ルース台風が 鹿児島を 襲いました。山の中に 入ってみると 大変な 被害でした。枝は折れ、木は倒れていました。
それを 若い人たちと一緒に 開墾しました。開拓者ですから、まず最初に 自分たちの 食べるものを 作らなければなりませんでした。
開墾した畑に 唐芋を作ったり、陸稲を 植えたりするのですが、とうとう三年間は 収穫皆無が 続きました。
ルース台風がきてから 何年間かは、毎年何度も 鹿児島は 台風に見舞われ、「台風銀座」という名が つけられた 頃でした。せっかく開墾してできた 作物も、台風にやられて 全滅状態でした。
また 猪の 巣窟でも ありました。
私と一緒に入った 青年たちは、東北・北陸 出身が 主で みんな 非常に優秀でしたが、まる三年たった時に、彼らはもう続けられない ということで 山を降りることに なりました。

そして それと同時に、水が なくなったのです。
昭和30年頃の 国有林というのは、 原生林を 伐採し、杉・桧 を 植林した 時代でした。私がとっていた 水源は、現在地から 1500メートルの所で、当時は ビニールパイプが なかったので、そこから 竹樋で ひかなければなりませんでした。
竹を 下の集落で 300本ぐらい 調達して、馬車で 引き上げて 作りました。
それを作った 青年たちが、山を降りてしまったと 同じ頃、 私の水源より上の 原生林が 全部 伐採されてしまい、たった 一つしかない 水源が 枯渇してしまったのです。
そして 本当のことを打ち明けると、彼らが残した みんなの借金が、 当時のお金で 183万円ありました。でも、若い者に 借金を背負わせる わけにいきませんので、全部 私の名前にきりかえて、妻と二人で やっていこうということに なりました。
私たち二人は 出発以前より 厳しい状態に なったのです。

その当時、鹿児島県庁には 開拓課という課があり、若い職員が「あの薬師寺さんの所の 若い連中は、皆 いなくなった。薬師寺さんは いつ山を降りるのだろうか。 きっとそう遠くないぞ。」と 噂していたようです。
そこで私は この人たちに、「いいえ。 そういうことは 絶対ない。栗野岳は霧島連山の一つで 大きな地獄を持つ 活火山だから、 いついかなる時に 大爆発するかもしれない。そうなったら 私も居れないから 出るだろう。 それ以外で 山を降りることはない。私は いったん山に入った以上、どんなことがあっても 山を降りることはない。」と いうようなことを 言ったと 記憶しています。

そこで、現在の山に固執した 心の問題は後に触れることとして、私は このままの 状態では 生きていくことは できないので、方策を探すため 本屋へと行きました。
5万分の1の地図で、霧島が全部まとまっている「霧島」という 地図をみつけて、 これを求めて 丹念に調べていきました。
私が 調べたのは、昔からの 農村集落が、霧島山麓の どこにあるのか ということでした。
霧島連山は、大山脈で、鹿児島・宮崎 両県に またがっています。両県の 農村集落を 探していくと、重要なことを 発見しました。それは、昔からの 農村集落や 一戸の 農家に至るまで、霧島山麓では、全て 海抜500メートル以下である ということでした。
このような山は 日本中探しても ありません。山梨県と長野県にまたがる 八ヶ岳では、 昔から 1300メートル以上の所で 農業をやり、また 水田まであったのです。九州の 阿蘇をみても 久重をみても、もっと高い所まで 農村集落があります。
霧島山麓に 関するかぎり、500メートル以上にある 集落は、全て 温泉集落です。有名なのは 丸尾温泉、その上が 牧園町の硫黄谷温泉、一番高い所にある林田温泉 です。
それでも 800メートルです。私の町で 一番高い 農家は 480メートルです。

これは、霧島山麓では、500メートル以下の所でないと 農業はできないことを 昔からの農民が、自分たちの住んでいる場所で 教えてくれている と 私は 解釈しました。
私の 現在の居住地は 海抜700メートルです。新しい 高原の農業、霧島の高原農業は いかにあるべきなのかを 考えました。それは、台風にも 猪にも 全く被害を受けない 農業でなければならない ということでした。
そして もう一つ気がついたことは、 海抜500メートルという線は、いつでも雨がちらつき、雲がかかると これは山の中で 濃い霧になります。この雲の 一番下の線が、ぴったり 500メートルです。
500メートル以上 ということは、日照が 少なくなるということです。霧・台風・猪 の 三つに対して 全く被害を受けない 作物は 何かと 選択していくと、何も残らず、 残ったものは 草だけでした。

私は、草だけによる農業を なんとか探し、体系づけなければと 思いました。
そこで、 北海道の農業を ふりかえってみました。
北海道の 農業は、明治2年の 屯田兵から 始まりました。鹿児島県出身の 黒田清隆が 北海道開拓長官となり、彼は 明治4年には 太平洋を渡り アメリカへ行き、当時の農務長官を 北海道まで連れてきました。
この ホラシ・ケプロンという 農務長官は、人材養成が 開拓にとって一番大切なことだと 主張しました。そのため、札幌農学校が できました。
札幌農学校といえば、「少年よ 大志を抱け」の クラークを 思い出します。クラークは、農業の講義だけでなく 宗教改革まで しました。生徒に 無理強いしてまで、キリスト教に 改宗させたのです。
これは 激しい開拓を 完遂するには、強い宗教的な信念、心の支えが 一番大切だ という 考えからでした。アメリカの 西部開拓での 心の支えのキリスト教を、生徒にも 求めたのでした。
この札幌農学校 二期生の中から 日本の キリスト教の先駆者の 内村鑑三や 新渡戸稲造などが 出ました。

また その同級生の中に 岩崎行親という青年が いたのですが、この人だけは、絶対に キリスト教への 改宗を 拒否したのです。日本人には 日本の宗教があると 主張したのです。
岩崎行親は 香川県出身ですが、鹿児島県の 一中(現在の鶴丸高校)の 初代校長でした。
そして、第七高等学校の 初代校長や 私立の 福山中学校の 初代校長も 歴任しました。 鹿児島の 学校教育の 基をつくったのは、札幌農学校出身の 岩崎行親といっても 過言ではありません。

それで、北海道農業は アメリカ式に 指導されましたが、うまくいきませんでした。
そして 大正の初めには デンマーク農法が 北海道に 入ってきました。北海道庁も 模範農家を 2戸招へいし、民間側からも デンマークまで渡って、デンマーク酪農を 採り入れています。
その デンマーク農法の 基を成しているのは 牧草です。 牧草を採り入れた 酪農輪作体系 というのが、デンマーク酪農の 基本なのです。
そして、ここでも キリスト教が 精神的バックボーンに なっています。これで 北海道の 畜産・酪農が 出来上がっていきました。

振り返ってみると、私のやってきたことは 一度も うまくいきませんでした。
私は、 牧草による農業に 初めて 光明がみえたような 気がしました。そのかわり、 あらゆる被害にも 負けない、完全で 安全な 輪作体系は いかにあるべきかと、十数年間 明けても暮れても 考え続けました。
もちろん 昼は 開墾しなければなりません。水は 道路もない 山の下の方から 汲み上げなければならず、それこそ 寝る暇も ありませんでした。最後には、夜、横になって寝るのは 罪悪とさえ 思えてきました。
そして、ランプから 電燈に変わったのが、昭和38年の暮れでした。12年間は、 夜は ランプ生活、道路は 山道しか なかったのです

ところが、年が明けて39年の2月に、県の 開拓課から、NHKの 優秀農家の コンクールに ぜひ出て欲しいという 要請がありました。
苦しい どん底生活の中 でしたが、断り切れずに、このコンクールに 出たのです。すると 鹿児島県代表となり、 次には 九州代表となり、最後には 東京で 最高の技術賞を もらいました。
全く新しい 農業を 創り上げたということが 認められたようでした。

私のやったことは 何から始まったかと 考えてみますと、台風と猪に 徹底的に やられたことからでした。そうすると、台風と猪は、私の 高原酪農にとって 最高の恩人 なのです。
私は そう思うように なったのです。私の家の周りには、今でも夜には 猪が うろうろしています。しかし、今日まで 鉄砲を持ったことは 一度も ありません。
猪は 私の恩人であるだけでなく、彼らは この山の 先住者であり、大先輩 なのです。 今でも 猪に出会うと、まだ居たか 本当に良かった という気持ちでいっぱいです。
「とにかく安全な所に行って、鉄砲にうたれるなよ。」と 声をかけるぐらいです。 私の 自然に対する 自然観の出発点は、猪と台風にあったことから 始まったのです。
そうして、昭和41年には 県民表彰を 受けることになりましした。





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