鹿児島県 姶良郡
栗野町 の 紹介


Kurino-Choh


位置:

姶良郡の 北部に位置し、霧島最西峯の栗野岳、北の熊峯、西南の 国見岳で囲まれた、川内川の沖積した 盆地の町 です。
発見された遺物 は、旧石器後期、縄文、古代、と 長い年月にわたる 祖先の生活があったことを 物語っていますが、近代では、西郷さんが 私学校生徒を引きつれて 長期に 滞在した、 栗野岳温泉 で 有名です。

歴史:

延喜式では、太宰府を出て 大隅国府に至る、大水駅 として 記されていますが、1197 年 の 大隅国図田帳に「栗野院六十四丁正八幡宮領」と 中世に 初めて、栗野の名前 が 現われます。
南北朝時代には、南九州における 仏教文化の 中心地だった と 考えられ、稲葉崎・田尾原 供養塔 群 は 県文化財 に 指定されました。
戦国動乱の 栗野地方を 統一したのは 島津貴久で、その子の 義弘公は 筑前・豊後 までの 八州を 一時 制覇しましたが、秀吉の軍門に 降り、 1589 年 に 栗野松尾城 に 帰国しています。
江戸時代は 身分制度 固定の 時ですが、栗野町の 墓碑調査では 薩摩藩共通に 武士(郷士)が 全国比率の 六倍と 多く、過酷な 農村支配の様子を 示しています。そして 明治維新を 迎えるのです。

人口:

3月末の 人口は 8,578 人 です。昭和 32 年 の 1万4千人強 を ピークに 減少を 続けています。 明治3年に 栗野郷校として 開校した 栗野小学校も、一時の 1学年5クラス から 現在は 1学年2クラス です。

交通:

西南の役で 西郷さんが 行き帰りしたのも 栗野を経る 陸路 ですが、人吉(肥後) と 隼人(薩摩)を 結ぶ 肥薩線 は 鹿児島で 最初の 鉄道 です。 明治36年の 開通で、昭和2年に 鹿児島本線が 開通されるまで 北九州や 中央への 動脈でした。
山野線は 大正10年に 開通し、大口市内の 金山の 鉱石運搬で 活況を 誇りましたが、昭和62年に ついに 廃線 と なりました。
肥薩線の 利用低下の 反面  物資輸送に 寄与しているのが 九州縦貫自動車道 栗野インターチェンジ で、水俣への 国道268号線の 要地と なっています。
また インターチェンジと 繋ぐ 農免道路として 生まれた 広域営農団地農道 は、農業拠点を連ねて 観光客を 霧島へと 導いています。

産業:

川内川の 流域に広がる 平野や 霧島山麓の 肥沃な 土地を 生かして、農業は 栗野町の 基幹産業であり、就業者数の 25%を 占めています。 農産物の 自由化、 後継者の 確保など、他町と同様の 問題も ありますが、複合経営や 新規産地化への 取組み 等 が 地区のリーダーを 中心に 推進されている ところです。
商業は 経営規模の小さい 個人商店が 中心です。 明治時代の 栗野駅の開設で、 松尾城下の麓から 駅前通りに その中心が 移動しています。 大正初期の 通り会商業会に 端を発する 特殊法人、商工会 は 商店経営の 強化・安定化 に 取組み、夏の 花火大会 など、イベントにも 力を 入れています。
現在の 事業所数 は 400強、従業者数 は 3000人 です。 うち 製造業は 50余で、 従業者数 1300人 です。建設業 も 50事業所 あり、町の 従業者は 400人強 です。
栗野町は 国分隼人テクノポリス圏域 の 北端に 位置しており、県との 連携を 密にして 数年前から 企業誘致も 進んでいますが、 地場産業についても 近代化、 協業化 あるいは 技術開発 が 町役場により 支援されています。


この Page の 作成のために 井上春香さん、前田春美さん、 などの 労作 「 栗野町
郷土史 」 ( 昭和50年刊、1119 Page ) を 参照させて いただきました。


入口 ページ メニュー ページ