五味オーディオ教室                  
少し 角を 矯めすぎては いはしないか

レコード音楽の鑑賞がモノラルからステレオに移って以来、オーディオ機器の進歩は目を瞠るものがある。
しかし、それに比例して音が美しくなったかといえば、かなり疑わしい。
むかしのSP時代、レコード音楽で(それを鑑賞するサイドで)周波数特性などを問題にする人はまずなかった。
漠然と音がいいか悪いか、さらには演奏がいいかどうかしか人は考えなかったし、口にしなかった。
それでも立派に音楽の鑑賞は成り立った。
当時のレコード・ファンがいい演奏と賛美したものが、今日でも、なお充分、鑑賞に耐えている。
ということは、竹針を切り、まことにレンジのせまい音で聴いても、ぼくらの耳は第一級の演奏をつまりは 音楽芸術を識別するにあやまりのなかったことを証するだろう。
今、オーディオ・マニアはことあるごとに歪がどうの、SN比がどうのと言う。
角を矯めて牛を殺すというたとえがあるが、私自身をも含めて、オーディオ愛好家は少し角を矯めすぎていはしないか?
もちろん、電気チクオンキの時代から、いい音の再生を意図した人はいた。
私自身にしても音をよくするため、ピックアップ(今のカートリッジにあたる部分を当時こう称した)の アーマチュアを支えるダンパーのゴム質を変え、磁力の強いマグネットに付け替え、インピーダンスを下げるためにコイルを巻き替えたりした。
今でいうカットオフ周波数を下げるために、サウンド・ボックスの音を拡大するラッパ(ホーン)を自作・延長しようと、一生けんめい 断面図の計算をしたこともある。
シロウトの生兵法に違いないが、そうした苦心の果てに、音がよくなったときの喜びはまさに天にも昇る心地であり、今でも その瞬間の興奮は忘れない。
またそんな興奮と歓喜の記憶が、以来、戦中戦後の十年間を除いて、私を音キチにしてきたと言えるだろう。
そういう私が現在、復刻盤を聴いている。 重ねて言うが、鑑賞に耐えるからである。
なかには、それはもうSP再生の針音まで録音されたひどいものもないではない。 さすがにスクラッチ・ノイズの洪水を浴びるような、そんな雑音を聴くのは苦痛だ。 海賊盤ならまだしも、エンゼルや日本コロムビアともあろうメーカーが、臆面もなくよく まあこんな商品を売出したもんだ、と腹が立って、ぶつくさ文句を言うこともある。
それでも針をあげないのは、まぎれもなくそこには演奏があるからだ。 そして聴いているうちに、耳は雑音に馴れてしまう。針音の洪水の中で、演奏だけを聴覚は聴き取る。

測定器は けっして 音楽を 創りはしない

人間の耳というのは、この点、じつによくできているもので、あらためてわれわれレコード音楽愛好家に(オーディオ・マニアにおいてさえ)究極のところ、 音楽はあるがヘルツやダイナミック・レンジはない、という気持ちを 私は 深めた。
ルノアール的に言えば「再生装置がナマの音を生み出せるわけはないから、他のものをかりてこれを補わねばならない、他のものとは すなわち、耳だ。――聴覚の機能だ」ということになるだろう。
人の耳ほど気まぐれでアテにならぬものはない、技術者はそういう。たしかにその通りであろう。
しかし測定器はデーターを示すだけで、それ自身、何物も創造はしない。
人間の耳は他愛ないほど気まぐれだが、それは鼓膜にとどいた音を感知するにとどまらず、その音から同時に何かを創造している。 その創造行為が、つまりは音ではなく音楽を各自の頭脳に届けるのである。
明らかに音楽は、スピーカー(または楽器)から一度、音波となって耳に達し、そこで音楽に再創造される、それが 音楽を聴くという行為だろうと思う。創造が伴うなら気まぐれなのは当然である。
測定器は音楽を創りはしない。耳は不確かどころか、もっとも精巧な測定器であって、音の取捨選択まで同じにやってしまうものだ。
私は補聴器を使っているから知っているが、補聴器というやつはパーティでは用をなさない。
テーブル・スピーチのほかに、他人の靴音、イスを動かす音、フォーク、ナイフの触れ合う音までどんどんとび込んでくる。
人間の耳は、そういう余計な雑音はいっさい排除し、スピーチの声だけを明確に聴き分ける。なんという精巧な自動制御装置だろう。
試みに、聴覚のあらゆる機能を満たす機械を造ってみるといい。もし造れても――ローデシベルの測定器でたかだか五百万円程度だが――聴覚を代行するのは億単位の金をかけてもむつかしかろう。
音を聴き分けるのは、嗅覚や味覚と似ている。
あのとき松茸はうまかった、あれが本当の松茸の味だ――当人がどれほど言っても第三者にはわからない。
ではどんな味かと訊かれても、当人とて説明のしようはない。とにかくうまかった、としか言えまい。
しかし、そのうまさは当人には肝に銘じてわかっていることで、 そういううまさを作り出すのが腕のいい板前で、同じ鮮魚を扱ってもベテランと駆け出しの調理士では、まるで味が違う。
板前は松茸には絶対に包丁を入れない。指で裂く。豆はトロ火で気長に煮る。これは知恵だ。 魚の鮮度、火熱度を測定して 味は 作れるものではない。

オーディオ愛好家 は 耳で 考える

ヨーロッパの(英国をふくめて)音響技術者は、こんなベテランの板前だろうと思う。
腕のいい本当の板前は、料亭の宴会に出す料理と同じ材料を使っても、味を変える。家庭で一家団欒して食べる味に作るのである。それがプロだ。
ぼくらが家でレコードを聴くのは、いわば家庭料理を味わうのである。
アンプはマルチでなければならぬ、スピーカーは何ウェイで、コンクリート・ホーンに……なぞとしきりにおっしゃる某先生は、言うなら 宴会料理を家庭で食えと言われるわけか。
見事な宴席料理をこしらえる板前ほど、重ねて言うが、小人数の家庭では味をどう加減すべきかを知っている。
プロ用高級機をやたらに家庭に持ち込む音キチは、私も含めて、宴会料理だけがうまいと思いたがる、しょせんは田舎者であると、ヨーロッパを 旅行して、しみじみ さとったことがあった。
本来、音楽について語れるのは、相手の記憶に対してのみだと スタンダールは言っている。 これ以外に ぼくらが音楽の話を通じさせるどんな方法があるか、と。 音のほうでも同じことは言えそうだ。
一緒の部屋で一緒のレコードを、あるいはスピーカー、アンプを試聴して、意見が異なるのは多分この記憶のせいだろう。
大事なことだが、オーディオの場合の記憶は、耳自体が持つものであって、頭脳によるものではない。頭は判断はするが音など聴き分けはしない。 音色を識別するのは耳である。 したがってわれわれオーディオ愛好家は耳で考える。
頭で考えるのは、値段がいくらだとか、これを買えば家計にどう響くだとか、この音質がその値段では高すぎる、あるいは 鳴っている楽器の銘、演奏家のこと、またその音楽を作曲した芸術家の伝記、逸話、もしくは 逸話にまつわる各人の思い出、演奏家にまつわる思い出、音楽史的な位置、まあ何にせよ 音質とは 関わりないものである。
これを褒めておかねばメーカーが、あるいはだれそれがうるさい、などという 処世のための狡智が 加わることもあろう。 それもまたおもしろいし、処世の知恵のともなわぬ批評があると 思うほうが どうかしている。
が、いずれにせよ 音質とは関係がない。
耳が感知するのは、純粋に、音そのものだ。そして音の良否を聴き分けるのは、どういう音を それまで聴いてきているかという 耳自体の体験だ。
この意味で、耳にも人生がある。音楽愛好家は頭で人生を考えるが、オーディオ愛好家は 耳で語る人だ、大雑把には そう言い分けていいだろう と 私は思う。